Column
コラム
「翻訳の中で失われるもの」
なんでも夏目漱石先生は「I love you」を「月がきれいですね」と訳したそうな。
わたし、ちょっと前まで夏目先生が本気でそう訳してしまったのだと思っていたんです。
と こ ろ が
聞けばどうやら意訳?というのでしょうか。
「私はあなたを愛しています」
だと趣がない、日本人なら「月がきれいですね」と訳すべきだ、みたいな。
どうやらそういうお話だったらしいです。
(これもどこまで本当なのかしら…)
でもふと思うのです。
「月がきれいですね」
と言われて、
(わあ!愛を告白されちゃった!!)
って、果たしてなるんでしょうか。
仮にわたしが“月ちゃん”みたいなアダ名を持っていたら、
(あら?あらあら?わたし褒められた?)
ってなるかも。
百歩譲ってそういうことはありそうです。
でも、
(あら!あらあら!わたし告白された?)
とはやっぱりならなそうな。
ううん…品性やら感性やらの問題なのでしょうか。
ともすれば昔の人はこれで
(この方はわたくしのことを慕っておいでなのだわ)
と思ったのだとして、それはつまり綺麗だ美しいだなんていう言葉自体が、それはもう人生で何度とは聞かないような、絶滅危惧種レベルの言語だったのかしらなんて。
そんなことも思ったりするのです。
だもんで、今隣にいる方がそんなことを言った日には、もう告白以外考えられないぞこれは、と。
だってこの人、“綺麗”っていったべ?
みたいな。
…本当のところは、分からないけれども。
思えば言葉って不思議ですよね。
「好き」って言葉を後生大事にしていらっしゃる方もいれば、まるで重みがないような身軽さで「好き」の言葉を乱舞する方もいます。
「愛」って言葉を人生の宝物のように大事にされる方もいれば、もうポンポン言えちゃう人だっている。
なんとなく「好き」ってこういうことだよなあ、とか。
なんとなく「愛してる」ってこういうことだよなあ、とか。
人それぞれあるわけですが、便宜的に“これってそういう意味だよね”とは思いつつも、その実全然すれ違ってた、なんてことは多分ザラにあるんだろうなあと思ったりするわけです。
言葉と心の翻訳がまるでかみ合わない!
みたいな。
けどそういうすれ違いも含めて、人間関係の面白さなんじゃないかしらとも思ったりして。
ストレートに翻訳できないからこそ、いとおしい。
こぼれてしまった、失われてしまった何かを、言葉を尽くして拾い上げたり、あるいは作り上げたり。
そういうのが、あれなんですかね。
コミュニケーションってやつなんでしょうか。
…うん、そんな風に思えたら何だかもうちょっと私たちお互いに優しくなれるのかなー、みたいな。
「…月がきれいですね」
「…はい?」
「あの、ですから、月がきれい…」
「え?どこに月でてます?」
「ええと、そういう月ではなくて」
「…もしかして視力悪いですか?」
…。
書いてみたらやさしさ空回ってめっちゃシュールな会話になりました。
うん、でも、なんだろう。
なんか生まれそうな気もしないでもない会話だなあという気もしないでもないって感じ、しませんかね…?!
(…気のせいかもしれないけれど…!)