Column
コラム
「美術展について思う事」
写真展を見てきました。
正直こういう場所は好きだけれど、苦手でもあります。
理解できない。
展示そのもの、建物そのものが。
建物自体がアートなのだから仕方ないのだろうけれど。
ただ理解が通常の建物を超えているために通路一つに戸惑うし、
吹き抜けのところから、
なんだか外壁とか屋根がツルツルしているところから、ワーッと落ちてしまわないか、といつも考えてしまうのです。
悪夢ではないけれど何だかふわふわしていて、いつ危ないことになるかわからない夢を見ている気分になる。
存在そのものが美術館は白昼夢みたいだ。
と、僕は思っています。
現代美術館はその最たるもの。
それに、知識も学もない僕のような人間にとって、オブジェ一つとっても理解の範疇を超え、
なんだかすごいもののすごさを理解出来ずに立ちすくむ阿呆になってしまって。
それでも尚そうした場所に足を運ぶのは、
少しでも教養ある人間になりたいという僕のいじらしさであり、足を運べば教養がつくと思っている浅ましさ故でもあると思います。
書を捨てて町にでよ。
と寺山修司の言葉もありますが、
やはり書を捨ててしまっては学はならず、得るものも十分とは言えないでしょう。
ただ百聞は一見にしかずという言葉通り体験して得られるものも果てしなく大きい。
要はバランスなのでしょう。
いったのは写真展ですが、
名前が東京都写真美術館なので、美術館で問題ないでしょう。
篠山紀信写真展。
まずこれはこの写真展に限らず、こうした芸術的なものに触れる際にいつも僕が思っていることだけれど、
やっぱり理解ができない。
この構図が、この色が、この光が、おそらくその全てに意味があってのことなのだろうが、僕はぼんやりと「きれいな写真」とか思う程度。
後は写真のタイトルから何となくこうしたメッセージ性があるのかも、と想像することしかできない。
それも理解できないが重なってその内辞め、ただただ何となくこれは好きな写真、これは何か奇妙な写真、これは何か怖い写真。
何て、乏しい自分の尺度でしか測れなくなってきます。
もしかすると、こうしたものを測る自分の尺度を乏しくないものにするためにも、
普段の自分ではしない体験というものは大事なのかもしれないですね。
けど一つだけ。
北海道苫小牧市勇払原野の写真。
北海道統合開発計画。
土地の買収が進み、人のいなくなった原野に佇む廃屋を撮った写真がありました。
もらったパンフレットによると、篠山紀信さんはその廃屋を「絵のように静止している」と言った。
写真に写る廃屋は静謐で、きれいで、人の気配がなく。
建物から生活が失われたその様は、時間がその時から止まってしまった、人間社会からすれば逸脱した光景のように僕の目に写りました。
これが「絵のよう」ということなのだろうか、とは思いました。
と、特に芸術的感性や知識を持っているわけではないのでそれっぽく言ってみただけではありますが、
けれど、その写真に写る絵みたいな廃屋は確かに絵ではなく現実のものなのだと思うと、
「作られたものは作られた意味を失ったその瞬間からどこか人間という社会からは異質なものになるのだろう」
と、職場の上司の言葉が思い出されます。
体験は大事だし、人の話を聞くことも、本を読むことも、外の世界を切り取って、自分のものにするという意味では大事なのでしょう。
多分人生の面白さもそこにあるかもしれません。
以上になります。
お読み頂きありがとうございました。